ぼーっと生きるがままに1年が過ぎていきました。
いろいろなもの(勉強以外)を追っかけるばかりの1年でした。

多少は強くなれたのかもしれないと思うものの、弱くなれる自分になったことが一番の強みではないのかと思ったりもする。

そんな僕でも届かないものとか許せないものとかはあるわけで。
べつに全体のために活動しろとは言わないが、活動している人を自分が気に入らないからといって何かと追い込もうとすることはないでしょうよ。
まあそんな彼はもはやここをきっと読んではいないのだろうけれども。

半年後の自分がどこにいるのか、誰といるのか、まったく分からなくなりました。
それだけが進歩です。

そういやもうすぐ100,000アクセスらしい。踏んだら報告よろしくです。
某所で添削のお仕事をしてるんだけど、
やってみるといかにこれまで自分の書いてきた文章に無駄が多かったり、
展開が強引だったりしてきたのかよくわかった。
そんなに割はよくないけど、いい仕事ができたもんだと思う。

川端康成が美文を書くことにいまさら気づいた。
何を読めばいいかわからないので、これ読んだぜ、的なものがあったら薦めてくださいm(_ _)m
ゲーム(特にRPG)をやる人ってどういう心理なんだろう・・・。
(自分がその外側の人間だから、そういう視点からの評論ができるのだけど。)

ゲームが我々に与えてくれるのは有限の選択肢にすぎないのに、ゲームの中のほうが自由になんでもできる、とある種錯覚するのは、やっぱり人間の頭の処理速度がその程度だから、なのかなぁ。

深読みしがちな僕は最適な反応が選択肢になかったりして、困ります。これだから機械は。

いや、本当の人間の言葉の解釈には限りない善意も限りない悪意も読み取れるなぁ、と思っただけですw
しかし相手の言葉をいちいち吟味していたら怖くなって何も話せない。ジレンマである。

事務連絡

2009年8月4日 日常
ちょっと暇だったので、プロフィールを1年ぶりくらいに更新してみた。
さすがに環境がすごく変わったので、だいぶ書き直してます。

夏休み何をしようか考えてみたんだけど、
「古典を読みたい」と漠然と考えてたのをやめて、いつか書いた英国学派の国際政治の本を読んでおこうと思います。

前期総括

2009年8月4日 日常
いつもは「総括」とかものものしい日記書かないのにねwしかも今は年末でもないしw
けどいちおう1学期が終わったので書いてみる。

・勉強(本分ww)
どうせしないなー。
ただ経済学的な見方もちょっとは勉強してみるかって思ったら
割と面白かった(それまでは数学使うし、現実に即さない理論をあれこれやるだけみたいな偏見があった)のでこれは収穫。
さらにいうと、こんなふうに避けてた分野が面白いこともあるので見直そうと思うきっかけにはなった。
語学はフランス語は順調です。夏の間もある程度なんかはするかな。
単語を知らないと全然会話できないからな><
あと留学したい。パリ?・・・それはgkbr
ドイツ語もやりたい。それがいつか書いた目標だったから。
(cf.http://dddrum.diarynote.jp/200811051738506877/
オペラも始めたからイタリア語も(ry
さすがに自重するかww

・サークルとか
いろいろ新しいことをしようとしても結局僕のやり方にあうものだけが取捨選択されるのはやっぱり必然ですか、そうですかw
まぁでもだったらそっちの方向で極めるのもいいかな、とも思う。
とりあえず先輩方の意識の高さを見すぎているので、圧倒されるしかないんだけど、
ここからいろいろ学びとっていかなければいけない。

・サブカル
いる場所が場所なせいで(ry
わかるけど、わかりすぎない とか コミュニケーションの目的じゃなくて手段
くらいのレベルを目指しましょう。

・頭の中
上のと別にこんな欄ができること自体おかしいという説もあるがw
真面目で、興味の幅が広めで、しなやかな頭の知り合いを増やしたいです。
それにつきる。↑欲張りすぎwww
あとは自分でいうのもなんだけど、情緒を解する人。

最近は必要が満たされることを幸せと感じるようになったみたいです。
なんかただ大きくて派手なことがしたい、とか思ってた頃が私にもありました。
四月病と厨二病ってやっぱり似てるのかね。まぁいいや。
比較的今の生活が充実しているということの裏返しということなのかなぁ。
ずっと日記がひどい内容だったので本当にごめんなさいという感じだったのですが、
なんかここ最近はかなり前向きな気分なんで
(こっちに進もうっていうベクトルがおぼろげながら見えてて、これやあれをやろう、みたいな)
しばらくこれで頑張ってみようと思います。

全部備忘録でごめんなさいでした。
ひとつだけネガティブなことを言うと、大学位の年齢になると学年の壁って非常に邪魔だとおもってます。

大学の知り合いにここを教えた人はいないし、むしろこのHN自体教えた覚えがないのですが(メッセアカウントを教えた人以外は)、もしかしたら見つけて特定して読んでる人がいるかもしれません。こっそり教えてくれると嬉しいです。そのほうが正直に書き続けられる気がする。
(そうしないとあなたが傷つく日記がいずれ書かれるかもしれません、と脅してみるw)
某SNSはいいんだけど、万人向けの内容しか書けないからな。
あんまりおれが万人向けの人間じゃないのが悪い(泣

さて

2009年7月24日 日常 コメント (2)
文系でもなんか勉強会をしたいなぁという欲求がw
(しかれども、文系の才能ある皆様にはリア充も多いので
 メンバーがそろわない公算もかなりあるのですが。)

けれども、次にかかげるような事態を避けたいがために言うのであります。

何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己は詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによつて益己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。今思へば、全く、己は、己の有つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる、己には最早人間としての生活は出來ない。

うん

2009年7月22日 日常 コメント (2)
小さな幸せこそ重要だ、といいきれればいいのだが、
その命題を肯定できるだけの根拠(ground)がないのが悲しい。
やはり間違ってる?もっと野望を持つべき?

毒書案内

2009年7月17日 日常
試験前なのに何書いてるんでしょうね・・・ww
某SNSにもレビューという機能があるけど,あっちよりはこっち向きかな,と思ったからこっちに書いてみます。

僕がひねくれてるからかもしれませんが,こういう本は大好きです。
それでいて小谷野某のとある本
(ttp://www.amazon.co.jp/『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内-新潮新書-小谷野-敦/dp/4106103087)
よりは説得力がある。

夏休みの暇つぶしにいかがでしょうか?
もっとも,フランス語選択の一部の人は彼の名前を見るだけで厭になるかもしれないけど笑
イギリス史上の有名な首相の一人、B.Disraeliが「16歳で自由党員にあらざる者は、心を持たぬ。60歳で保守党員にあらざる者は、頭を持たぬ」といったのは有名らしいけど、彼に限らず人はだんだんと保守的になる傾向があるという観察は結構一般的らしい。

でだ、ここを見ている人に限らないけど、
大学入学後の1年生が探そうとするのが「生きがい」だとか「やりがい」らしい。
けれどもおれは思うんだ。
そんなに自分に確かな意味がそうそうあるなんて思ってはいけないんじゃないか?
何かをしたからって簡単にそれは得られるものなの?
どうしてそういう仮言命法的な考え方をよく考えもせず前提にするわけ?
とか考えるときりはない。
でも、まわりがやたらたくさんのゼミに無秩序に参加したり、
「フィールドワーク」に精を出したりしてるとそう思わざるを得ない。

そりゃ試食期間というのはもちろんあるだろうけど、
お客様的にいろんな世界を垣間見るのももちろん重要だろうけど、
いったいそれだけをしてそのあとに何が残るだろうか。
もちろん人の考え方というものはそれぞれだろうし、
選択肢の幅が広がるということはありうるかもしれない。
人間は制度に生きるものだからこれでよいのだという見方もできるし。
おれのキャパの狭さをこういう言説でごまかそうとしてると思う読み手もいるかも。
でもおれはこういうやり方に空しさと、あるいは儚さと、
いわゆる「中二病」と類似する傾向があるような気がずっとしてる。
不信感が拭い去れない。

だからなんかもっとしっかり腰を据えるということをしたほうがいいとおもうけど、難しいみたい。
一人で考えるということが現におれもきちんとできない
(少数の相手との対話の中でそれに近いことをすることはあるけど)。
「現代人が思い出すことができない」という小林秀雄の指摘は誰もが知るものだけれども、今のおれたちは考えるとか観察するだとか待つだとか、そういうことができないのではないか。

だから、もっとちゃんと基礎を学べと。自戒も込めて。
理系よりも文系の人にそこをおろそかにする傾向が見える。
(文理という分け方は極度の単純化だと自分でもおもうが、
社会科学や人文科学が自然科学より作法にうるさくないというのはあるかとは思う)
もちろん駒場の授業は(必ずしも)「基礎」にはつながらない。
だから授業をちゃんと受けろとかそんなことを主張してるのではない。
だけど「できることがない!」とか焦っているのはどうなんだろうか。
ローマは一日にしてならず。
まだ慌てるような時期でもないと思うのだよ・・・。

といいつつgoal-orientedなサークルが結局楽しいと思っているおれ。
KF然り、歌劇団然り。
まだまだ子供だなぁ、でもそれでいいか。まだ19歳だし・・・
咳が出るのが治らない・・・
ぜんそくでも発症したのか、あるいは花粉症にでもなったか。
しかし病院に行くのもけだるい ←たぶんこういう人が病気で死ぬwww
まぁ3日間くらいたくさん寝られれば治るのかもしれない(けど無理orz)。

でまぁ、いいたいのはそういうことじゃなくって、今現在のところ
自分が「笑えない」人間なんじゃないのかと真剣に考えてしまっている。
いや笑えるのだが、鏡の前で笑ってみるといかにも不自然。
顔のバランスが悪い。幸せさが顔に表出されない。
英語Iで「笑ってみましょう」と言っていたのはさすがにむちゃぶりと思ったが、
満面の笑みが美しい人間は社会生活の上で絶対的に有利だと思う。
まったくもって損な顔に生まれついたものだ。

だけど、顔の表情は現在までのその人の行動その他に規定されてるという考え方もある
(だから政治家は悪人づらなんですね、とは言わない)。
そういえばこれまでの行いが悪すぎたのは残念ながら事実だと思う。
けどもう振り返ってくれる人もいないのではないかとも思う。
石ころと同じ扱いをされたが最後、人間はその対象物を見ないのだから・・・
(正確には知覚はするのだが、認識のプロセスで捨象される)。

笑えて第一印象のよい人間が好循環に入れるのに対して、笑えなくて第一印象がぱっとしない人の社会は広がりを持たないし、それゆえ幸せが顔に出ることもない、結局同様のことが繰り返されるという悪循環になる。
まぁ立場入れ替えの可能性がない社会では強者は弱者になんとでも言える。
当たり前のことである。(現に前近代社会というのはそうやって動いてきた)
少なくとも世界が力学的なものである限りそれは覆らない。
いくら一度連帯を保った関係であっても、
より高次元に進むためには仲間を見捨てることもよくあり得る。
殊に自己と立場が相同する相手ならなおさら。
こう思うといかに道徳や偽善さえもが救いであるかということが分かると思う。

さらにひどいのが、初対面じゃない相手にすら笑えない、
いや結構長く付き合ってる人の前でも本音が言えないこと。
結局オオカミみたいなんだよね。一人でほえるしかないってか。
人に弱みを見せることに無駄に抵抗感を持ってるというか。
(文字通りの「無駄」。ついでに、こういうことを言ってる人間が日記でこんなことを声高に主張してる時点で大いなる矛盾である気がするが、気にしない。)

こんなときこそ、
平家物語は面白い。

まぁ、お金出してもらって大学行ってる身分がこんなことをいうもんではないというのはわかってるつもりなんだけど。あまりにも意識が沈滞してるので、いつもにもましてひどい日本語、不当な単純化を承知で書きました。一応「笑う」っていうのは文字通りにも読めるし、もっと象徴的にも読める、と逃げておきますw
読書って魔法だね・・・
2000語くらいしかない短い英語の本なのに(やや深読みだなぁと思いつつも)
グロテスクさに吐き気が・・・
むしろ自分の過去についての嫌なことを思い出した。
政治学やら経済学やらの本もいいが、何でもない(といったら作家の先生方に失礼だが。彼らは命を削って本を書いてるはずだから)本を読むのも大事だよなー。

全体に忙しすぎるのですが、前から言ってるとおり、新しい考え方とかを生み出すには絶対暇とかぶらぶらする時間とか、友達とどうでもいい(目的のない)話をする時間とかが必要だとおもう。
まぁ環境が変わったばかりだからそれができないのは仕方ないんだけどね。
去年のほうが考えに柔軟性があったなとか本当に皮肉すぎるw

まわりが語学のセンスがあまりにない人が多くてショック・・・
いやおれも全然ないけど、それにしてもなぁ・・・w
KBN先生の言う「見たり書いたりしないで言える」能力は確かに重要だと実感した。

こんなものを

2009年5月19日 日常
まがりなりにも「日記」と称するのはずうずうしさの極みというべきかもしれないけど、「草枕」の冒頭は味わい深い。一行一行読んでみるとね。

山路を登りながら、かう考へた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟つた時、画が出来る。
人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。
矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人である。
唯の人が作つた人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行く許(ばかり)だ。
人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、
寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人といふ職が出来て、ここに画家といふ使命が降(くだ)る。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、
人の心を豊かにするが故に尊(たつと)い。

そういえば今日明日は特考らしい。なつかしいねー。
まだやってんのかといわれそうだが、
チャラいの成立条件は 女性をどう扱うかという点もさることながら、男女の扱いの差がとても大きくなることではないかと思った。

だからテニサーはチャラい。
そのうえで、完全な平等を信じる僕はチャラくない。

この説には欠陥があって、お笑い業界=チャラいという結論に達する。
まぁ実際問題チャラいかもしれないが。

憂鬱

2009年5月11日 日常 コメント (6)
タイトルの如し。なんか最近憂鬱ですね。鬱じゃないと思いますけど。
クラスで新フェスで一方では盛り上がりつつ、もう一方ではとてもnegativeという分裂気味の症状を呈しています。
僕について詳しい人ほど知っていると思いますが、元来は神経質かつ心配症、というどうしようもなさなので結構きてます。あ~。
mixiには死んでもこんなことは書きませんね。

ちなみにここは高校同級だった人たちが多くみているであろうことを推測して書いときますが
僕をリア充呼ばわりしている人には僕としてはやめてほしい。
よく知らずに言ってるんだとしたら、もっとちゃんとみてほしいし、
片面的にそう見えるんだとしたら、それが偏った観察である可能性を疑ってほしいし、
ネタで言っているなら悪魔的(?)活動に加担しているという事実に気づいてほしい。
正直現実と乖離したそのようなレッテルが貼られるのが怖いし、嫌です。
なんでチャラさとかリア充とかが価値判断尺度として提示され続けるかな・・・?
好きなことができなくて正直ストレスです。プレッシャーの裏返しとしてのね。

かくいう私も人の見方がステレオタイプ的であったりしたので、
いまになっていろいろ反省してます。いろいろ申し訳なかった。
僕はクラシックはよく聴き、ロックバンドの音楽の作り方もある程度は聴く(どちらも究めてはないですね、残念ですが)んだけど、それは非常に対照的なものとして語られるときもある。
でも音楽の概説書なんかを読むと派生であると書かれている。クラシックからいかにしてかような音楽が生まれてくるのだろう。よくわからない。

ただひとついえるのはオーケストラは専門職集団だから、ある意味では非常に豪勢な演奏形態でもあるのに対して、ロックバンドは逆に楽器が少ないから多くの役割を一人がこなさねばならないということであろう。
これらが分化した事情というのは、前者が高価であり上流階級の独占物に陥りがちなことを考えれば想像するに難くない。聴く層の相違というのも、これに端を発しているに違いない。
ついでにいえば内部の政治的な関係も、良くも悪くも19世紀的な意味での守旧と革新の構造的対比を持っているように思う。

話がそれた。
ベースギターの面白く、魅力的なところはしかし上記で述べたとおりさまざまな役割をこなす点である。即ち、ベースラインとしての機能はもちろん果たすのだが、同時にリズム楽器の一端でもあり、メロディープレイヤーの一端でもあるところである。ジャズにおいても同様のことが観察できそうであるがあまり詳しくないので言明は避ける。アップライトベースの張力のない音はうんざりなので、ここではベースギターに話を限った。

上のような見解は僕が帰納的に得たもので、残念ながらポピュラーミュージックについて体系的に理論の勉強はしたことがない。しかしこういった書法にも見るべきところがあるように思った。オーケストラよりは難しくないだろう。いつかしてみたいと思う。

ふむ

2009年5月1日 日常 コメント (2)
お久しぶりです。もうここをほっといて半月にもなります。mixiという私の精神からすれば異文化的な領域へも足を踏み入れてみましたが、些かの違和感を感じないではいられません。私の文体はこちらにいるときのほうが自然なのであって、無駄にはっちゃけた感じにするのは苦手であります。ならばそれを貫けばよかろう、という話なのですがね。私はいつからかKYをとても気にするようになったようです。周りの目が怖いと言っていたのはだいぶ前からですが、どうもそれで人と違う方向性を、惰性でもなくトレードマークともならない形で打ち出すことは難しいみたいです。アイデンティティの拡散というか、一種の現代病といえないこともないかもしれない。

大学に入ってみて強く感ずるのは最高学府とて他人指向型(Riesmanの分類が絶対的に正しいとは思わないもののある程度の指標にはなりうると考える) の人間がいかにも多いということでしょうか。なんだか最近は~~の女の子は(または~~の彼女は)かわいいとかそういう話がいろんなところで聞かれる、いや今日も聞かれたのですが、他人の問題を斯様に論評することにいかなる効果があるのかが私には分からない(批判する意図はなく、純粋に分からない)。本人不在の前で物心崇拝に近い形で論じられる彼/彼女たちは何を思うだろうか(無論何も思わないのであるが)。私は残念ながらそこにカタルシスを見出すこともできない。むしろ、小さな幸せというものを見いだせない大学生の恋愛というものが、不幸な所有の形式に堕すことを心配するばかりです。私が心配するに及ぶ問題ではないことだけは確かなことでありそれがある意味じれったい。気づかない彼らが不幸なのか、気づいた私が不幸なのかはよくわからない。

よく、内部に入り込んで楽しめばいいだろう、ということを言われる、またはそのような視線を想定する場面がありますが、このような世界(といっていいのかわからないが、少なくともテニサーなどには独自の文化の相がみえる)が相対的に見えてしまうのは絶対的に私が鋭いのか、またはバカなだけか。否、両方かもしれない、というのが現在の正直な感想であります。

うん

2009年4月15日 日常
ゼミはいかないことにしました。誘ってくれた人もいたから悪かったんだけど。

代わりといってはなんですが、谷崎にはまりました。
文章がすばらしいですね。それに尽きる。
(今考えると谷崎の文章として「陰翳禮讚」を読ませたせっきーは犯罪的である)

とか言ってる人はフランス語をやってはいけないような気がした。
うん、でも20世紀後半のフランス思想のなかにはやや行き過ぎのものがあるのではないか。
東京大学の入学式が13日午前、東京都千代田区の日本武道館で開かれた。理学部卒でノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授が祝辞を寄せ、「人はボルトやナットのような規格品であってはつまらない」と後輩を激励した。
 南部さんが在学時の貴重な体験として挙げたのは、友人と夜を徹して語り合った寮生活。「勉強よりもまず自分とは何か、という問題を解決するのが先決だった。講義よりも友人たちから学んだ」と振り返った。
 受験を終えたばかりの新入生に「学校の成績と社会に出てからの成功は別物」とクギを刺し、「何か他人と違ったところを持っていることを自負し、互いにそれを評価せねばなりません」と強調した。
(時事ドットコムから引用)

これ、どこかの高校そのものだと思うんだよね。いろんな意味で。

入学式で思ったのですが、開会前に演奏されたWagnerはいろいろひどかったですねw
あんま真面目に聞いてる人いなかったみたいだけど・・・
よくも、あそこまでフレーズの流れ(とそれが作る高揚感)を無視した音楽が作れるなと。
日本の西洋音楽(の摂取)は軍楽隊のそれが発祥なのかなぁ。
縦がそろえばいいという空気が見え見えなのが、
あれを音楽以前の冷めたものにしてしまっていたような気がしてならない。
個々の技術はすごく高い(はずな)のに、音楽の構成としてはなんだか微妙。

吹奏楽コンクールとかいうものも、
少なくとも審査の在り方を鑑みるにそういう音楽を作る元凶であると考えていますが、
ニコ動にある合唱とかをみても
流れを重視して作ってある演奏に対して酷評コメントがついてたりして、
日本人の感覚(否、多くの日本人がかかる教育的な場において形成する感覚)が、
少なくとも西洋の本場のそれとずれていることを悲しく思いました。
いや別に、西洋の感覚を絶対視する必要はないんだけど。
(とりあえずK宮先生に受けた指導は高校段階までで普通に受けられるものではないので、
本当に感謝しています)

音楽室に音楽家の肖像を飾る前に音楽を教える人間は考えることがあるんじゃないのか。
universalな音楽受容を志向する上では非常に微妙な問題だと思う。

みんなありがと

2009年4月12日 日常
いろいろご意見ありがとうございます。
かなりトゲトゲしたことを書いたので、
ある程度だれかがコメント付けてくれるといいなと思ってましたが、
予想以上につきました。ありがとうございますm(__)m

2日間休んで(この2日間はサークルの見学等もしませんでした。来週はするでしょう)
さきの日記自体が書かれたこと自体が慣れない環境への疲れからという気がしてきました。
(なんて都合のいい奴め!という批難は甘んじてうけます)
まぁ、同じ環境にいすぎたので異なる環境への耐性が全然なかったのが悪いですね笑
自分が中1のときのことは覚えてないが、もしかしたら同じくらい疲れてたかも。

入学式のために月曜の授業が20日まで開講されないのは
きわめてもどかしいとしか言いようがありませんが、
多くの授業がそろそろ本題に入ってくるわけでもありますし、ちゃんと勉強しよう。

ゼミなぁ。迷うなぁ。
力も付くだろうし、いい先生だということも知っているのだが、
興味のど真ん中ではないから、迷う。
冬学期に国際政治とかのゼミが開かれるのを待つ手もあるしな。

授業

2009年4月11日 日常 コメント (10)
やっぱり大学は学問の場ですね。よくわかります。

厳しい学問の道に対する憧れを挫かせるかのようなあの環境はいったいどうなんだろうw

ってことで授業はじまりました。コメントはだいたいにおいて人大杉。
あと時間がないってのもありますね。
文字どおりに「休む間もない」。

こういう環境なので、「大学生の本分は勉強だ」という空気にならなくても
(ないしそれを否定する空気になっても)仕方ありません。
さらに文Iは授業には期待しないで
伊○塾とかで法科大学院入れればいいや、的な空気もあるし。
それで価値観の転倒が起こる。遊んでる人=勝ち組、みたいな。
まぁわかりますけどね。(社会的である以前に生物的に)人間だからね。

けど、元筑駒生の何人かにもそのような傾向がみられるのは、
おれとしては残念です。まぁおれが残念でも当人にとっては関係ないだろうが。


たぶん、こういう環境でもちゃんと勉強できるやつが、立派なやつなんでしょう。
勉強しないで出来るってことは、高校までの授業ならぶっちゃけある話だったけど、
どうも大学では通用しそうにないので、がんばらないといけないですね。

ちなみに、言葉の綾みたいなことを使って言ってみると、
勉強するために勉強したのに、勉強できない。
しかもその勉強はほんとうは勉強ではなかった。

こんな感じです。
ここの読者には来年のために勉強している人もいると思いますが、
ほんとうに今のうちにある程度まともに勉強したほうがいいです。

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