お久しぶりです。もうここをほっといて半月にもなります。mixiという私の精神からすれば異文化的な領域へも足を踏み入れてみましたが、些かの違和感を感じないではいられません。私の文体はこちらにいるときのほうが自然なのであって、無駄にはっちゃけた感じにするのは苦手であります。ならばそれを貫けばよかろう、という話なのですがね。私はいつからかKYをとても気にするようになったようです。周りの目が怖いと言っていたのはだいぶ前からですが、どうもそれで人と違う方向性を、惰性でもなくトレードマークともならない形で打ち出すことは難しいみたいです。アイデンティティの拡散というか、一種の現代病といえないこともないかもしれない。
大学に入ってみて強く感ずるのは最高学府とて他人指向型(Riesmanの分類が絶対的に正しいとは思わないもののある程度の指標にはなりうると考える) の人間がいかにも多いということでしょうか。なんだか最近は~~の女の子は(または~~の彼女は)かわいいとかそういう話がいろんなところで聞かれる、いや今日も聞かれたのですが、他人の問題を斯様に論評することにいかなる効果があるのかが私には分からない(批判する意図はなく、純粋に分からない)。本人不在の前で物心崇拝に近い形で論じられる彼/彼女たちは何を思うだろうか(無論何も思わないのであるが)。私は残念ながらそこにカタルシスを見出すこともできない。むしろ、小さな幸せというものを見いだせない大学生の恋愛というものが、不幸な所有の形式に堕すことを心配するばかりです。私が心配するに及ぶ問題ではないことだけは確かなことでありそれがある意味じれったい。気づかない彼らが不幸なのか、気づいた私が不幸なのかはよくわからない。
よく、内部に入り込んで楽しめばいいだろう、ということを言われる、またはそのような視線を想定する場面がありますが、このような世界(といっていいのかわからないが、少なくともテニサーなどには独自の文化の相がみえる)が相対的に見えてしまうのは絶対的に私が鋭いのか、またはバカなだけか。否、両方かもしれない、というのが現在の正直な感想であります。
大学に入ってみて強く感ずるのは最高学府とて他人指向型(Riesmanの分類が絶対的に正しいとは思わないもののある程度の指標にはなりうると考える) の人間がいかにも多いということでしょうか。なんだか最近は~~の女の子は(または~~の彼女は)かわいいとかそういう話がいろんなところで聞かれる、いや今日も聞かれたのですが、他人の問題を斯様に論評することにいかなる効果があるのかが私には分からない(批判する意図はなく、純粋に分からない)。本人不在の前で物心崇拝に近い形で論じられる彼/彼女たちは何を思うだろうか(無論何も思わないのであるが)。私は残念ながらそこにカタルシスを見出すこともできない。むしろ、小さな幸せというものを見いだせない大学生の恋愛というものが、不幸な所有の形式に堕すことを心配するばかりです。私が心配するに及ぶ問題ではないことだけは確かなことでありそれがある意味じれったい。気づかない彼らが不幸なのか、気づいた私が不幸なのかはよくわからない。
よく、内部に入り込んで楽しめばいいだろう、ということを言われる、またはそのような視線を想定する場面がありますが、このような世界(といっていいのかわからないが、少なくともテニサーなどには独自の文化の相がみえる)が相対的に見えてしまうのは絶対的に私が鋭いのか、またはバカなだけか。否、両方かもしれない、というのが現在の正直な感想であります。
コメント
でも俺はガチガチの他人指向型だなあ
他人指向型であることが悪いとは必ずしもいいません。ただこういう視点も見てほしいなと思ったり思わなかったり。大半はしないでしょうけれども。
なんともこう多いと他人指向型がそのほかを社会的に疎外するという構造が見えてきて悲しくなります。少なくとも、思考する私は絶対的に孤独です。