選ぶということ

2009年3月24日 日常
昨日、SEGの祝賀会がありました。ホテルとか何ww
30日にMEPLO祝賀会もあったりするらしいが、
はぶられてたのではなく池袋所属生向けらしい。
といいつつ、今日訪問したおかげで、
受付の親切なお姉さんは私にも案内を送ってくれるそうです。
やったねw
脱線しましたが、昨日はいろんな人が祝福してくれました。
とくに、ageさんなんか後ろから飛びついてきました(誇張ではない)w
多分前期で受かってたら当然視されたので、後期で受かったほうがよかったのかもw
↑そう思わないとやってられないというのもある
(そういえばおれはミーハーであった。ごめん自重するわ)

9時近くに終わってから都庁展望台やらなんやら。
Gitefさんと「終わり」と「始まり」のparadoxicalな関係の話なんかもしましたが、
「選ぶ」ということも同じ構造を取るようであります。
「選ぶ」というと選択肢が多くて嬉ばしいことのように一見思えるけど、
「選ぶことが義務付けられている」 (=特定のものを選ぶことが義務付けられているという意味ではなくて、選ぶという行為そのものが義務付けられていること)もとでは
「どれを選べばいいのやら」という外部から見れば贅沢な悩みが生じることになるわけです。
まぁだから本当は「選べるけど選ばない」状況が一番幸せということになるな。
それは社会的に許されないことがほとんどだけどね。
そう考えると「選ぶ」ことの制度的強制は、人間を縛りつけるものだといえたりする。

なんかいつか、「どんな環境にも入ってしまえば人間は何とか適応するものだ」
というようなことを書いた記憶があって、そう逞しくありたいとも思うけれど、
「どんな環境でも人間は不満に思う」というのもまた真実だったりするので
「選ぶ」っていう行為の、選択肢を減らす残酷な性格についても
もう少し意識しなければいけないのかと思ったりもする。
(あとどの選択肢にもリスクがあるということからの迷いとか。)
だが、「選ぶ」ことそのものは社会の安定存続に必要だからしょうがない。
まぁコストとして甘受するしかないというところ。

「大人って何ですか」とかいう質問は難しいし、大真面目に答えたら中二病だろうが、
責任を持って選べるということ、は少なくとも必要条件だと思いました。
「選ぶ」のが制度なら、その内部化にはやっぱり教育が必要不可欠でしょう。
日本人は選ぶのが下手であるような感じが(個人的に)ある。
イギリスの学校は給食のメニューも選択制だったし。
総じて、ものを選ぶことを子供のときからトレーニングする傾向が強いらしい。
そう考えると、いきなり18くらいになって選択の自由ががーっと増える
日本方式は、結構心理的には辛いのかもしれないとか思ったり。




フランス語を選びました。まぁ難しくても、それによる責は自分で負いますw
どうもフランス語の文献の日本語訳はこなれていないので、
原語で読んだほうがいいなと思っただけです。
(これでフランス語翻訳者が無能なだけとかだったら悲しいわw)
文1・2フランス語選択の読者がいたら知らせてくれると嬉しいです。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

この日記について

日記内を検索